スクールカーストをめぐるいくつかの見方――いじめ対応の手がかりとして、何をどう見るか
- 森田智博

- 8月12日
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森田智博 / 2026年4月28日 / 読了時間:約7分
1 はじめに
スクールロイヤーとして学校からご相談を受けるなかで、保護者の方や先生方から、次のようなお話を伺うことがあります。
「うちのクラスにはスクールカーストのようなものがあって、上の子たちが下の子たちにきつく当たっているように見えるのですが、これはいじめとして対応すべきなのでしょうか。」
「スクールカースト」という言葉は、もはやマスコミや家庭の会話のなかにも溶け込んでいます。一方で、論者によって意味するところが異なり、現場で対応を考える際に、かえって判断を難しくしている面もあるように感じます。
道具立てや言葉が新しくなっても、いじめの本質――人間関係の中での力の偏りと、そこから生まれる心身の苦痛――は変わりません。本記事では、(1)日本でのスクールカースト論のいくつかの考え方、(2)それらに通底するもの、(3)序列がネットへ広がったことによる変化、(4)違いや誤解、(5)現場で何をすべきか、という流れで、整理を試みたいと思います。
2 日本でのスクールカーストについてのいくつかの考え方
スクールカーストに関する主な議論を、おおまかに整理すると、次のとおりです。
鈴木翔『教室内(スクール)カースト』(光文社新書、2012年)
教員・生徒へのインタビュー調査を基に、同学年の児童生徒の間で共有されている「地位の差」を実証的に描いた研究です。学業ではなく、人気・コミュニケーション能力・運動神経・ノリの良さ等が評価軸となり、「1軍・2軍・3軍」のように序列化されていく構造を示しました。
この研究で私が最も重く受け止めているのは、同じ序列を、生徒と教員がまったく違うものとして見ているという指摘です。生徒はそれを、誰が誰に言うことを聞かせられるかという力関係として捉えています。一方、教員はそれを、コミュニケーション能力やリーダーシップといった能力の差として捉えがちです。
この食い違いは、実務では見過ごせない意味を持ちます。上位に立つ子が周囲に及ぼしている影響力を、教員が「まとめる力」と読み替えてしまうからです。そして、その子に役割を任せます。力の行使が能力として評価され、結果として教員が序列を裏書きする。このずれが、後で述べる問題の起点になります。
森口朗『いじめの構造』(新潮新書、2007年)
森田洋司氏の「いじめの四層構造論」(被害者・加害者・観衆・傍観者)や内藤朝雄氏の議論を踏まえつつ、「スクールカースト」という枠組みでいじめの発生メカニズムを類型ごとに整理し、対策を論じた著作です。
土井隆義氏の議論――「キャラ」と関係の固定化
土井氏は、現代の若者がクラス内で「キャラ」を割り振られ、それを演じることで関係を維持する構造を分析しました。スクールカーストの「固定性」がいじめにつながり得ること、その一方で「キャラ」は周囲の状況に応じて切り替わり得る可変的なものであることが指摘されています。
内藤朝雄氏の議論――中間集団全体主義といじめ
内藤氏は、学校という閉鎖空間で、生徒が同じ集団で長時間を過ごすことを強いられる構造(中間集団全体主義)が、いじめを構造的に生み出すと論じました。いじめの議論におけるスクールカースト論の理論的背景の一つと考えることができそうです。
3 それらに通底するもの
論者によって着眼点や評価は異なりますが、これらの議論には、いくつか共通する視点があるように思います。
ひとつは、学校空間の閉鎖性です。同じメンバーで一日の大半を過ごし、容易には抜けられない集団のなかで、関係がいったん固まると、その後の流動性が低くなりやすい――この点は、いずれの論者も指摘するところです。
ふたつめは、評価軸の単一化です。学業以外の場面でも、コミュニケーション能力・ノリ・容姿・運動神経等が、暗黙のうちに「教室内での値踏み」の軸として機能してしまうという指摘です。
みっつめは、いじめとの関連性です。土井氏や森口氏の議論でも整理されているとおり、いじめは必ずしも「上位の者が下位の者をいじめる」という形で起こるとは限りません。実際には、同じ階層内・近接階層内でいじめが発生するケースも少なくありません。
第三者委員会の調査実務に関わるなかでも、「上位の者が下位の者をいじめている」という単純な構図には当てはまらない事案にしばしば出会います。スクールカーストの議論は、こうした「力の偏り」を可視化する一つの補助線になり得ます。
4 いま起きている変化――序列が教室の外へ出ていく
ここまでの議論は、いずれも教室という物理的な空間を前提にしています。しかし、相談を受けていて強く感じるのは、その前提が崩れつつあることです。
かつては、放課後と家庭が、学校の関係からいったん離れられる場所でした。序列の圧力は、下校とともに切れていたはずです。いまは違います。グループのやり取りは帰宅後も続きます。既読がつくかどうか。返信がどれだけ早いか。誰の投稿に反応したか。こうしたことが、そのまま翌日の教室での立ち位置に結びついています。内藤氏の言う「逃げ場のなさ」は、いま24時間に広がっています。
序列を測る目盛りが、目に見える数値になった点も見逃せません。フォロワーの数、反応の数、グループの中で誰の発言が拾われるか。以前は空気として共有されていたものが、いまは画面上で誰にでも確認できます。曖昧だからこそ揺らぐ余地のあったものが、数字として固定されてしまうという面があります。
そして、この圧力は、教員からも保護者からも見えにくいところで働きます。教室で目立った出来事が起きていなくても、序列は動き続けています。学校で何も起きていないように見えることは、被害がなかったことの根拠にはなりません。保護者の方から「学校では普通に過ごしているようです」と伺うことがありますが、そこで判断を止めないでいただきたいと考えています。
5 誤解しやすい点と、軽く扱ってはいけない実質
スクールカーストという言葉については、現場で注意しておきたい論点がいくつかあります。
ひとつは、評価軸の重さです。スクールカーストで「軸」となっている要素――容姿、運動神経の基礎、コミュニケーション能力の素地、家庭の文化資本、家計や育ち、発達特性等――の多くは、本人が選んだわけでも、努力で容易に変えられるわけでもない、生得的な要因に大きく規定されたものです。評価軸が一元化された閉鎖空間で、自分では如何ともしがたい属性によって序列に置かれてしまう構造は、外形上の流動性(学級替え、進学、人間関係の変化)があるとしても、本人にとっては動かしがたいものとして経験されることが少なくありません。語感だけを捉えて「大したことではない」と軽く扱ってしまうと、当事者の苦しさを過小評価することになります。
もうひとつは、「どの学校・どの学級でも同じ序列がある」かのような捉え方です。クラスや学年によって関係の組み方は大きく異なり、固定的なヒエラルキーがほとんど見られない学級もあります。スクールカーストは学級内の関係性を見るための一つの補助線ですが、どこにでも同じ形で存在する普遍的構造として扱うと、かえって判断を誤らせる場合があります。
そして、「上位=加害/下位=被害」という単純化にも注意が必要です。この見立ては、実態と合わないことがあります。
いじめは、同じ階層のなか、あるいは近い階層の間でも起こります。上位グループの内部で位置を争った結果、そこから一人が弾き出されることもあります。中位に置かれた子が、自分が下に落ちることを恐れて、特定の子を攻撃する側に回ることもあります。上位にいる子が、その立場を保つために過剰な役回りを求められ、疲れ切っている場合もあります。
上位の児童生徒を「加害側」と決めつけた見立てで聞き取りを始めれば、支援を必要としている子の声を取りこぼします。それだけではありません。予断に基づく指導は、当事者からの信頼を損ないます。
6 何ができるか――現場で意識しておきたいこと
これらを踏まえて、現場で意識しておきたいポイントを整理します。
まず、スクールカーストを「あるもの」として黙認・追認しないこと、そして、さらに踏み込んで、教員自身がそれを積極的に利用・強化しないことです。
実際の現場では、「黙認」にとどまらず、教員があえてこの序列を学級運営に利用しようとする場面が見られます。たとえば、学級委員、班長、行事のリーダー役、グループ活動のまとめ役といったフォーマルな役割を、いわゆる「上位カースト」と目される児童生徒に繰り返し任せるような運営です。教員の側からすれば、「まとめ役として頼みやすい」「クラスを動かしやすい」という実務上の理由があるのだと思いますが、結果として、学級内に既にある力の偏りに、教員という公的存在が権威を上乗せしてしまうことになります。
これは、いわゆる下位とされる子どもたちにとっては、耐えがたい経験となります。ただでさえ動かしがたい序列が、大人によって「正しいもの」「変えられないもの」として裏書きされることになり、無力感をさらに深めさせてしまうからです。学校という公的な空間でその追認が行われることの重さは、十分に意識しておく必要があります。
教員が「クラスにはどうしてもそういう序列があるものだ」と受け入れ、序列を前提とした学級経営を行うと、上位・下位双方の子の選択肢を狭めるばかりか、下位の子にとっては「逃げ場のなさ」を一層強める結果となります。リーダー役や責任ある役割は、固定したメンバーに集中させず、多様な児童生徒が経験できる形で配分することが、構造に手を入れる第一歩になります。学級委員等の役割そのものを否定する必要はありませんが、その役割が「クラスの代表」としてのものなのか、「上位者の権限」としてのものなのか――この境目を、教員側が自覚的に区別する必要があると考えています。
次に、評価軸の多様化を意識した学級運営です。前節で述べたとおり、スクールカーストで評価軸となっている要素の多くは、本人にとって如何ともしがたい属性に根ざしています。だからこそ、コミュニケーション能力・ノリといった軸だけが教室内で機能してしまわないよう、学業・芸術・スポーツ・委員会活動・地域活動等、多様な活動の場面で異なる子が異なる持ち味を発揮できる仕組みを意識的に組み込むことが、関係の固定化を緩め、生得的属性による序列を相対化する手掛かりになります。
加えて、「キャラ」の固定化を緩める工夫です。一度固まった役割からは抜け出しにくいのが学校空間の特性ですから、グループ替え、席替え、活動単位の組み替え等を通じて、子どもが新しい関係を試せる機会を確保することが大切です。
ネットについても、一言添えておきます。端末を取り上げれば済む話ではありません。前節で述べたとおり、そこは既に子どもたちの関係が続いている場所だからです。困ったときにどこへどう伝えるか、その道筋を複数用意しておくこと。やり取りの記録は消さずに残しておくこと。この二つを、日頃から子どもと保護者に伝えておくことが現実的な備えになります。
そして、いじめ対応の場面では、スクールカーストを「補助線」として用いるという姿勢が有用です。スクールカーストや「いじめの四層構造論」(被害者・加害者・観衆・傍観者)等の枠組みは、児童間の関係性を把握する手掛かりとして役立つ一方、現実の関係性は枠組みに収まりきらないことも忘れてはなりません。
法的な整理も、あわせて確認しておきます。いじめ防止対策推進法第2条第1項は、いじめを、一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為であって、その対象となった児童等が心身の苦痛を感じているもの、と定義しています。学級にカーストがあるかどうか、当事者がどの層にいたかは、いじめの成立要件ではありません。スクールカーストは、なぜその集団で力が偏り、なぜ声を上げにくかったのかを理解するための補助線です。認定のための道具ではありません。
7 まとめ
スクールカーストという言葉は、現場で関係性を見るうえで便利な補助線です。しかし、これを「学校に普遍的に存在する固定的な序列」として受け止めてしまうと、現実の事案を見誤るおそれがある一方、語感だけを捉えて「大したことではない」と軽く扱うこともまた、当事者の苦しさを過小評価することになります。
論者によって意味するところが少しずつ異なる用語であること、「上位=加害/下位=被害」という単純化が必ずしも実態と合わないことを踏まえつつ、それでも残る共通の問い――すなわち「閉鎖空間で評価軸が一元化し、本人には選びがたい属性によって関係が固定化することで、子どもたちが声を上げにくくなる」という構造に、現場としてどう向き合うか。これが、スクールカースト論の核心ではないかと考えています。
舞台や呼び名が変わっても、いじめの本質は変わりません。スクールカーストという補助線を、子どもたちを枠にはめるためではなく、子どもたちを枠から解き放つために用いていきたいと考えています。
学校向け
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